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回想
なかなか更新ができなくてご免なさい!
私事なので人様に言うお話ではないと思うのですが。
でもやはり応援下さった皆様やお世話になっている多くの方々に
ご報告をしなくてはいけません。
そしてやがて私の悲しみが癒えた後も
この日の思いを大切に保管出来ればと思い、
新たな出発をする為にも回想記を記しておこうと思います。
はぁあれから一ヶ月か。
神戸に戻ると今にも「おかえり~」と玄関から
ひょっこり、いつもの笑顔で出てきそうで。
時間は淡々と進み
残った歯車は世界から取り残されぬように
その時間ベルトに追いつこうと
静かに歯車を合わせていこうとしてる。
そんな感じの一ヶ月だった。
先日は阪神大震災15年目の日、
神戸三宮東遊園地に行ってきました。
追悼会場には本当に沢山の方々が早朝からお祈りに集まっていました。
1.17阪神大震災、あの日の朝、
発生直後まだ電話回線が生きていて
朝の6時過ぎに姉ちゃんと連絡を取り合って安否を確認したよね。
で小学校のグランドに避難して止まない余震に
不安を抱えながらの車中泊。
地震発生から一月位経ったちょうど今頃は
一度自宅に戻ってみたけど、
ライフラインは復旧の目処が立たずで。
めちゃめちゃに破壊された家具やガラスの破片だらけなので
勿論靴は履いたまま。
そうそう、近くの小学校のプールの水をバケツに汲んでは
当時10階に住んでいた姉の新居へ一緒に階段で運んだっけネ。
あ、食料調達、
これもなかなか大変だったっけ。
一つ500円で平然と売られてるおにぎり
笑顔の姉もこの時ばかりは「ひどい話やね...」といいながら
長い列に並んだよね。
陸路も海路も全てのアクセスが遮断された神戸だけど、
「父が生きていたらぜったい救援物資山盛り詰め込んで、
かき分けながら飛んできちゃうヨネ~!」
なんて話てたっけ。
等々、
このひと月、色んな場面を思い出していました。
それからちゃんと演奏の仕事に戻れたのは、あの震災から一年後。
それまで片道8時間かかっていた大阪まで演奏に行っていた
幹線道路や線路がなんとか開通してから。
大学を卒業して以来はクラシックとジャズに分かれて
お互い音楽を追求していて共演の機会はなかなか無かったけれど
この震災は大きなきっかけでした。
2001年に「震災孤児支援チャリティーコンサート」を企画し
学生の時以来の姉弟共演が実現。
これはホントに嬉しかったナァ。
この時
震災後廃材の中に落ちていた鍵盤ハーモニカ
それを見つけて拾い上げたピアニカを使って
姉と演奏した「ジムノペディ」のDuo。
これがきっかけで
「これからは生き残った我々と生き残った楽器で
心が安らぎ、そして元気になれる演奏を続けて行こうね」
と『CHO Sister Brothers』の活動が始まりました。
結成してからも
姉も私もお互いにハードな演奏活動で、
姉はヨーロッパやウィーンへ演奏に飛び回ったり
オーケストラとの共演で
ベートーベンのピアノコンチェルトに挑んだり。
私は韓国や台湾に活動の場が広がり日本を離れたり、
アーティストのサウンドプロデュースのお仕事もあって
なかなかCHO Sister Brothersの演奏や作品が沢山創れないものの、
会っては音楽談義で、いつも核心に迫る話になって
ホントに時間が過ぎるのは速かった。
この期間ゆっくりとアイデアや考えを纏めて行く上で
姉も私もこのスキルアップ期間が必要で
とっても貴重な時間だった、と思います。
2006年07年はアメリカに挑んだ年。
とにかくアイデアとサウンド、
そして何より心の向かう方向が決まったのならば、
行動有るのみ!!
『どうせやるなら世界のてっぺんから』合い言葉に、
数々の世界的なアーティストがここから誕生した
全米最大の『サウスバイサウス・ウェスト音楽祭』のオーディションに
無謀にもエントリーしたり。
そして
予選を抜けてなんとステージを獲得!してしまう。
この時もうどれだけ興奮したか分からない☆
いよいよホントの旅が始まる、そんな予感がした。
写真はアメリカ「SXSW」 に出演時






帰国してから
そう、KOBEコレクションのイベントや、
2007年6月には待ちに待ったフランスツアーの実現!
アメリカから戻ってすぐ、数ヶ月でツアーの準備をしたっけ。
( 俳優パスカル氏と)

(オフの日にみんなでフランス名物?マルシェ/朝市に来た時の姉)

毎日の演奏が充実してた。
海外は機材などのトラブルがつきものだけど
どんなピンチだってメンバーで知恵を絞って乗り越えてきた。
帰国後
まさかこの後病気が見つかるなんて。
でもホントに静かに強かった。
自分の病気について本当によく勉強に勉強した。
私達も、絶対に屈する物か!!!!
全てに闘ってやるゾ!
と思った。
静かなる闘いが始まった。
お医者様が伝えねばならないだろう厳しいセリフにだって
姉弟で食らい付いた。
立場で言っている言葉と「生きる」ってことは
そう簡単にイコールさせられる物ではないからネ。
母も二人とも病気について調べに受験のように勉強しながら、
経過を観察し、舵取りと決断の毎日。
「生きるってさ、どんな時もその一瞬まで全うすることだから。」
健康な時も余命を告げられても、
いつも冷静に明るくそんな話をしてた姉。
兎に角出来うる限りの可能性を考え抜き、
そして東京に活路を見出し、治療に通った。
何度通っただろうか、
誰一人めげる事のない、むしろ強くなっていく
スペシャルチームだった。
タイムリミットもとっくに過ぎているのに
ステージに上がる姉の元気な様子をみて主治医は感心されていたヨネ。
その後治療に当たって下さった沢山のお医者様は
慎重に見守って下さり私たちの真剣勝負につき合って下さった。
それからたくさんのステージに上がった。
2008世界華商大会神戸、2008、2009大阪高槻ジャズフェスティバル、
(写真は2009年5月ジャズフェス)
ヨーロッパツアーは今の治療が終わる2010年からネ、
と約束をしながら
東京原宿、横浜、長野、広島、九州と
ニ度の全国ツアーもいつもの笑顔で弾ききった。
そして
2009年9月



2009年9月11日
神戸文化ホールでの演奏
これが愛する仲間とのラストステージになりました。
この僅か3ヶ月後にこの世を去るなんて誰も想像もつかない。
是非皆様に
もう一度勇姿をご覧頂ければ本当に幸いです。
沢山の応援メッセージを下さり本当にありがとうございます。
必ず御返信させて頂きますので今しばらくお待ち頂ければと思います。
御陰さまでTommyは間もなく元気になります!
そして間もなく歩きだします!
私事なので人様に言うお話ではないと思うのですが。
でもやはり応援下さった皆様やお世話になっている多くの方々に
ご報告をしなくてはいけません。
そしてやがて私の悲しみが癒えた後も
この日の思いを大切に保管出来ればと思い、
新たな出発をする為にも回想記を記しておこうと思います。
はぁあれから一ヶ月か。
神戸に戻ると今にも「おかえり~」と玄関から
ひょっこり、いつもの笑顔で出てきそうで。
時間は淡々と進み
残った歯車は世界から取り残されぬように
その時間ベルトに追いつこうと
静かに歯車を合わせていこうとしてる。
そんな感じの一ヶ月だった。
先日は阪神大震災15年目の日、
神戸三宮東遊園地に行ってきました。
追悼会場には本当に沢山の方々が早朝からお祈りに集まっていました。
1.17阪神大震災、あの日の朝、
発生直後まだ電話回線が生きていて
朝の6時過ぎに姉ちゃんと連絡を取り合って安否を確認したよね。
で小学校のグランドに避難して止まない余震に
不安を抱えながらの車中泊。
地震発生から一月位経ったちょうど今頃は
一度自宅に戻ってみたけど、
ライフラインは復旧の目処が立たずで。
めちゃめちゃに破壊された家具やガラスの破片だらけなので
勿論靴は履いたまま。
そうそう、近くの小学校のプールの水をバケツに汲んでは
当時10階に住んでいた姉の新居へ一緒に階段で運んだっけネ。
あ、食料調達、
これもなかなか大変だったっけ。
一つ500円で平然と売られてるおにぎり
笑顔の姉もこの時ばかりは「ひどい話やね...」といいながら
長い列に並んだよね。
陸路も海路も全てのアクセスが遮断された神戸だけど、
「父が生きていたらぜったい救援物資山盛り詰め込んで、
かき分けながら飛んできちゃうヨネ~!」
なんて話てたっけ。
等々、
このひと月、色んな場面を思い出していました。
それからちゃんと演奏の仕事に戻れたのは、あの震災から一年後。
それまで片道8時間かかっていた大阪まで演奏に行っていた
幹線道路や線路がなんとか開通してから。
大学を卒業して以来はクラシックとジャズに分かれて
お互い音楽を追求していて共演の機会はなかなか無かったけれど
この震災は大きなきっかけでした。
2001年に「震災孤児支援チャリティーコンサート」を企画し
学生の時以来の姉弟共演が実現。
これはホントに嬉しかったナァ。
この時
震災後廃材の中に落ちていた鍵盤ハーモニカ
それを見つけて拾い上げたピアニカを使って
姉と演奏した「ジムノペディ」のDuo。
これがきっかけで
「これからは生き残った我々と生き残った楽器で
心が安らぎ、そして元気になれる演奏を続けて行こうね」
と『CHO Sister Brothers』の活動が始まりました。
結成してからも
姉も私もお互いにハードな演奏活動で、
姉はヨーロッパやウィーンへ演奏に飛び回ったり
オーケストラとの共演で
ベートーベンのピアノコンチェルトに挑んだり。
私は韓国や台湾に活動の場が広がり日本を離れたり、
アーティストのサウンドプロデュースのお仕事もあって
なかなかCHO Sister Brothersの演奏や作品が沢山創れないものの、
会っては音楽談義で、いつも核心に迫る話になって
ホントに時間が過ぎるのは速かった。
この期間ゆっくりとアイデアや考えを纏めて行く上で
姉も私もこのスキルアップ期間が必要で
とっても貴重な時間だった、と思います。
2006年07年はアメリカに挑んだ年。
とにかくアイデアとサウンド、
そして何より心の向かう方向が決まったのならば、
行動有るのみ!!
『どうせやるなら世界のてっぺんから』合い言葉に、
数々の世界的なアーティストがここから誕生した
全米最大の『サウスバイサウス・ウェスト音楽祭』のオーディションに
無謀にもエントリーしたり。
そして
予選を抜けてなんとステージを獲得!してしまう。
この時もうどれだけ興奮したか分からない☆
いよいよホントの旅が始まる、そんな予感がした。
写真はアメリカ「SXSW」 に出演時






帰国してから
そう、KOBEコレクションのイベントや、
2007年6月には待ちに待ったフランスツアーの実現!
アメリカから戻ってすぐ、数ヶ月でツアーの準備をしたっけ。
( 俳優パスカル氏と)

(オフの日にみんなでフランス名物?マルシェ/朝市に来た時の姉)

毎日の演奏が充実してた。
海外は機材などのトラブルがつきものだけど
どんなピンチだってメンバーで知恵を絞って乗り越えてきた。
帰国後
まさかこの後病気が見つかるなんて。
でもホントに静かに強かった。
自分の病気について本当によく勉強に勉強した。
私達も、絶対に屈する物か!!!!
全てに闘ってやるゾ!
と思った。
静かなる闘いが始まった。
お医者様が伝えねばならないだろう厳しいセリフにだって
姉弟で食らい付いた。
立場で言っている言葉と「生きる」ってことは
そう簡単にイコールさせられる物ではないからネ。
母も二人とも病気について調べに受験のように勉強しながら、
経過を観察し、舵取りと決断の毎日。
「生きるってさ、どんな時もその一瞬まで全うすることだから。」
健康な時も余命を告げられても、
いつも冷静に明るくそんな話をしてた姉。
兎に角出来うる限りの可能性を考え抜き、
そして東京に活路を見出し、治療に通った。
何度通っただろうか、
誰一人めげる事のない、むしろ強くなっていく
スペシャルチームだった。
タイムリミットもとっくに過ぎているのに
ステージに上がる姉の元気な様子をみて主治医は感心されていたヨネ。
その後治療に当たって下さった沢山のお医者様は
慎重に見守って下さり私たちの真剣勝負につき合って下さった。
それからたくさんのステージに上がった。
2008世界華商大会神戸、2008、2009大阪高槻ジャズフェスティバル、

ヨーロッパツアーは今の治療が終わる2010年からネ、
と約束をしながら
東京原宿、横浜、長野、広島、九州と
ニ度の全国ツアーもいつもの笑顔で弾ききった。
そして
2009年9月



2009年9月11日
神戸文化ホールでの演奏
これが愛する仲間とのラストステージになりました。
この僅か3ヶ月後にこの世を去るなんて誰も想像もつかない。
是非皆様に
もう一度勇姿をご覧頂ければ本当に幸いです。
沢山の応援メッセージを下さり本当にありがとうございます。
必ず御返信させて頂きますので今しばらくお待ち頂ければと思います。
御陰さまでTommyは間もなく元気になります!
そして間もなく歩きだします!